【幼少期】学校が終わって帰宅すれば締め出し状態

毒親日記

小学校低学年の頃から共働きだった我が家では、合鍵は長女しか渡されていなかったため、私たちは学校が終わって帰宅しても家に入ることすらできませんでした。そんなお話を共有します。

私3年生妹1年生の頃は自宅に入れるのが午後6時過ぎ

母の金遣いの荒さのせいで、常に貧乏暮らしだった我が家では、当然ながら母が好きなものを食べるために共働きをしていました。それはいい。でも問題は、うちの親はバカだったのか、合鍵を作って子どもたちに渡さなければ家に入れないことは頭になかった

最初に渡されたカギは3つだったらしく、1つは母親、1つは父親、残った1つは長女に渡していました。私たちにはカギなど持つ資格はなかったのです。でも私たちは小学校低学年なので、誰よりも早く帰宅するわけですよね。

当然ですがカギは空いていないので、私たちは社宅の廊下で親や姉の帰りを待つしかありませんでした。冬は凍えるほど寒く夏は溶けるほど暑かったけど、私たちは文句もいわずに親や姉の帰りを待つしかなかったのです。

今のように子どもが水筒を持って出るなんてありません。さらに私たちはお小遣いなど一度か二度くらいしかもらったことがありません。お金は自分がアルバイトをして初めて手にした宝物のようなものでしたから……。水分を摂ることもできずいつも死にそうでした

たまに姉が早く帰ってきてもひもじい思いをしていた

たまに姉が早く帰宅することがありました。そのときは自宅に入れましたが、何しろ我が家には食べるものがひとつもありませんでした。冷蔵庫には母が大好きなたくあんとか、桜でんぶ、ビールだけしか入っていませんし、棚を開ければウイスキーだの焼酎だのがゴロゴロありました。

普通なら籠とかシンクの下とかに食べられるものが入っていそうだけど、そこにも母が飲むビールだの日本酒の瓶だの醤油くらいしか入っていません。私たちは水しか口にできませんでした

母が戻ってくると自分が食べたいものしか作りません。私たちは高校生になるまで肉をほとんど口にしたことがありませんでした。それは母が嫌いだったからにほかなりません。とにかく、母は自分中心の考えしか持っておらず、金は全て自分のために使っていたのです。

しかし、たったひとつだけ私たちが口にできるものがありました。それが小麦粉です。母は小麦粉に砂糖を入れて水で溶いて焼いたものが大好きだったため、小麦粉だけは大量にあったのです。そこで私はクッキーやケーキを作る技を身に付けました。

おやつは全て私が作って分け合っていた

姉と私はお菓子作りを始めました。姉はクッキーを焼きましたが、私はニンジンを使ったケーキを作ったり、パンケーキを作ったりできるようになったため、自宅に入れたときにはそれらを作って皆で分けて食べていました。それが今の料理好きにつながったのかなと……。

中学生になると、1日500円で私がみんなの晩御飯を担当するようになると、お肉も取り入れるようになりみんなの健康状態は改善していったのです。ちなみに、私は小学5年生のころは体重が22kgしかなく、今なら確実にネグレクトで逮捕されていたでしょうね。

妹も姉もガリガリ状態でした。ところが、中学になった私が晩御飯を作るようになると、みるみる一般的な体重になったのが今でも笑えます。あ、その頃から母だけはコロコロと太っていましたけど……。

今その話を母にすると「オラは今になって子どもたちに嫌味いわれる」とかいっていますけど、嫌味じゃなくて本当のことでしょ?と思う。そうそう、最近になって私の子育てを見て、母が「あんたの子育て見てると、オラなんて馬鹿な親だったんだろう?あんたみたいに育てていれば、こんな扱いされなかったのに」とかいっています。

いや、あんたね……。そういう問題じゃないでしょ?あんたのは逮捕レベルの犯罪行為ですよ!といいたいのだ。こんな母は、1日おきに「何も食べるもんがないから買い物連れてってくれ!」といいます。「おやつもない」とかいうけど、私たち子どものころにおやつのおの字もなかったのに、よくそんなことを口にできるなぁと思ってしまうのだ……。

そんな母は86歳になった今でも、食欲旺盛だし見てくれ重視で美容整形に非常に興味があり、周囲の目が非常に気になるらしい。夢は世界一周旅行だし。こんなに欲望だらけなんだから、100になっても死ぬ気はなさそうです。

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